プリンセス プリンセスのリーダー渡辺敦子が語る“ブレークまでの6年間” 寄せ集め5人が誰も抜けなかった理由
一世を風靡したガールズバントのプリンセス プリンセス。リーダーだった渡辺敦子は、2016年に地元の千葉・市原市で児童発達支援・放課後等デイサービス施設のダイアキッズを開設した。21年からは、バンド解散後から携わる東京スクールオブミュージック&ダンス専門学校のTSMで学校長を務めている。今も音楽に触れながら、社会貢献活動で多忙な毎日。その半生を本人が振り返った。「前編」はバンド結成の経緯から、プリンセス プリンセスとしてブレークするまでを語った。
TSMに飾られた自身のベースと写る渡辺敦子【写真:荒川祐史】渡辺敦子インタビュー「前編」
一世を風靡(ふうび)したガールズバントのプリンセス プリンセス。リーダーだった渡辺敦子は、2016年に地元の千葉・市原市で児童発達支援・放課後等デイサービス施設のダイアキッズを開設した。21年からは、バンド解散後から携わる東京スクールオブミュージック&ダンス専門学校のTSMで学校長を務めている。今も音楽に触れながら、社会貢献活動で多忙な毎日。その半生を本人が振り返った。「前編」はバンド結成の経緯から、プリンセス プリンセスとしてブレークするまでを語った。(構成=福嶋剛)
プリプリ全盛期でも電車とタクシーで実家から通っていた【写真:荒川祐史】そして、「このまま行ったらどうなるのかな?」と不安だった頃、「私たちに可能性を感じる」と言ってくれた人の情熱に引かれ、全員で小さな事務所に移籍して、バンド名をJULIAN MAMA(ジュリアン・ママ)に変えました。オリジナル曲は発表していないのですが、パット・ベネターとか洋楽のカッコいい曲をたくさんコピーしていたので、演奏力が格段に上達しました。さらに、「いつか自分たちで出したい」と思ってメンバーが作っていた曲が、後のプリンセス プリンセスの曲につながりました。振り返ると、この時代にプリンセス プリンセスの基盤ができていました。
その後、「シンコーミュージックがガールズバンドを探している」という話があり、社長の草野昌一さんに声を掛けていただきました。ソニーミュージックから再デビューすることも決まり、プリンセス プリンセス(PRINCESS PRINCESS)としての活動が始まりました。名付け親は私たちのプロデューサーだったムーンライダーズの岡田徹さんです。デビュー・ミニアルバム『Kissで犯罪』(86年)の制作中、「君たちにぴったりのバンド名がある」と言って、この名前をお披露目してくれました。初めは「自分たちで『お姫様』って言っちゃう?」と思いましたが、「シンコーミュージックとCBSソニーという大きな船に乗って、とにかく私たちは売れたい」という気持ちでした。思えば草野さんも、岡田さんも亡くなってしまいました。お世話になった方がいなくなるのは寂しいですね。
再デビューから2、3年後。私たちの状況が良くなりました。89年の7枚目のシングル『Diamonds』から始まり、『世界でいちばん熱い夏 』(89年)、『OH YEAH!』(90年)、『ジュリアン』(90年)、『KISS』(91年)、アルバムも『LOVERS』から93年の『BEE-BEEP』まで、全ての作品でチャート1位を獲ることができました。ライブは全都道府県ツアーだったり、日本武道館、西武球場、横浜アリーナでもやれました。街では私たちの曲がいろんなところで流れていました。とにかく火のつき方が急で、不思議な気持ちでした。私はその頃でも、普通に総武線とタクシーを乗り継いで武道館や歌番組の会場まで通っていました。満員電車で、真上の中吊り広告を見ると私たちが写っていました。バレないように前髪で目を隠しながら、下を向いていましたね(笑)。あの頃、SNSがあったらそんなことはできなかったでしょうね。
□渡辺敦子(わたなべ・あつこ)1964年10月26日、熊本・水俣市生まれ。千葉県育ち。83年、赤坂小町でバンドデビュー。86年、プリンセス プリンセスのベーシスト、リーダーとしてメジャーデビュー。数々のヒット曲を残し。96年に解散。同年、東京スクールオブミュージック&ダンス専門学校(TSM)副校長に就任。2012年、プリンセス プリンセスを期間限定で再結成し、16年3月に活動終了。同年、児童発達支援・放課後等デイサービースのダイアキッズを開設。21年10月、TSM学校長に就任。今月、稲川淳二の「稲川芸術祭2023」テーマソングをTSMの学生コンペで選出する“稲川芸術祭meet’s TSM”と題したコラボ企画をプロデュース。