内海桂子・好江
日暮里駅で降りると、とりあえず尾久熊の前の親戚を訪ねようと、方向もわからないまま大きな川に沿って、砂利道をとぼとぼ歩いていました。足は血だらけになり、痛くて歩こうにもどうにも歩けません。そのとき、後ろから声をかけてくれた人がありました。荷車に米俵を二、三俵積んだ中年の男性です。事情を聞かれ、震災でやられたことを話すと、「おかみさん、素足じゃとても無理だ。失礼だが、どこかで草履か足袋でも買いなさい。そして、そのお子さんに何か食べるものを買ってあげなさい」 そう言って五十銭銀貨を母に差し出すのでした。今なら一万円にもなりましょうか。「もし、ご主人が見つからず、どこにも泊まるところがなかったら、私のところへいらっしゃい。新宿の駅の前で、『大黒屋』と聞けばすぐわかるから、いつでも相談にいらっしゃい」 その後、この親切な大黒屋のご主人を訪れることもなかったようですが、母にとっては今も忘れることのできない人です。
内海桂子の漫才入り
1937年夏、高砂家とし松の紹介で、 隆の家万龍の父・隆治が経営していた 隆の家興行を紹介される。同社には万龍や前田勝之助などが在籍しており人気のある会社であった。
そのころ、私と別れた男が大江しげるさんとボップ・ホープの芸名で、浅草国際劇場(現在、浅草ビューホテル)の前にあった百万弗劇場に出ていて、お店へ行く通り道だったこともあって、一人の舞台をちょっとのぞいてみました。大江さんが私のところに駆け寄ってきて、 「笙子の相方がお嫁に行っちゃうんで、助けてくれないか」 と頼むのでした。実は大江さん、その前に、 「あんたのと漫才をやるから、衣装作りの金、貸してくれ」 と言ってきたのですが。そのあとに染芳が断りに来て 「大江が借金の申し込みに来たんだってな。わしは、そんなことは言わんよ。君に頼める立場じゃないし、君には世話になっているんだから……。あいつに、お金は貸さんでいい」 それから間もなく大江さんは、染方の子供の幸治を修業に預けてあった曲芸の師匠の家へ行き、私の知らない間にお金を借りて、自分たちの舞台衣装を作ったようです。そんな男でしたから、女房の笙子さんの相方を頼まれたときは、ちょっと考えましたが、亭主が借金するような状態で、しかも子供三人が病気で寝ているのでは、笙子さんがかわいそうだと思って、 「一週間くらいだったら、いいわよ」 と、私は富士荘に臨時休暇をもらうつもりで引き受けました。こうして私は戦後再び、女流漫才として舞台に立つことになったのでした。
(中 略)
……かれこれ半年近く笙子さんと漫才やっていたでしょうか。そのうち仕事の連絡が来なくなり、おかしいな、と思っていたら、 「笙子さんが妹の京美智子とコンビを組んで、姉妹で漫才をやってるよ」 と、教えてくれる人がありました。こんなことされては、私の心中も穏やかではありません。だれだって黙っていられないはずです。 「どうなってんの」 「美智子が亭主に死なれて、また漫才やりたいと言って急に九州から出てきたんだよ。そんなわけだから、君、だれか相方を探してくれないかな」 と言いわけするのです。ハイ、そうですか、なんて私も黙っては下がれません。 「そっちで勝手なことをしておいて、店までそめさせて、何よ。そっちが助けてくれと言うから、こっちは店までやめてやってるんじゃないの。相方を探せなんてよく言えたわね。アタシは五年も七年も芸界を離れていたんだからね。今さら相方いませんか、なんてみっともないこと言えませんよ。そっちで、だれか連れてらっしゃいよ」 私はかんかんに怒って、文句を言いました。 こうなれば、大江さんとしてはだれか連れてこなれば収まりがつかないはずです。それで連れてきたのが、大江さんと同じ亀有に住んでいた今の好江さんだったのです。
内海好江の経歴
コンビ結成以後
「好江ちゃんは、桂子さんのお弟子さんでしょう」 なんてよく人は言いますけれど、弟子ならまだ楽です。やる気がなければ、 「やめちゃえ!」 とひと言いえば、いいのですから……。そりゃあ、十四という年齢の差のため、内輪ではどうしても上下の関係は出てきます。だけど、そんなことはお客さんには関係ないわけで、舞台へ出たら五分と五分だよ、とは常々好江ちゃんに言っていることでした。
1982年には長年の功績を以て、芸術選奨大臣賞を受賞、 1983年には漫才師としてはじめて芸術選奨文部大臣賞を受賞。 1987年には第15回放送演芸大賞功労賞を、1988年には花王名人劇場での活躍を賞して「花王名人劇場功労賞」を得ている。